四季の花だより 

能楽堂

蹴鞠の碑
サッカーの守護神?・・・蹴鞠の神様を祀る白峰神宮(京都市上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)
ご存知でしょうか?サッカーの発祥より古く、日本には蹴鞠(けまり)があったようです。皮製のまりを地上に落とすことなく蹴り、競う古来よりの伝統芸能・・・その優雅さに当時の貴族の生活がしのばれます。
白峰神宮は、悲運の崇徳天皇や淳仁天皇のご神霊をまつるべく、明治天皇が建立。
境内が和歌・蹴鞠道の宗家飛鳥井家邸宅だったため、蹴鞠の守護神・精大明神も祀られ、サッカー上達の神様として、Jリーガーをはじめ、全国のサッカー少年に人気を集めています。
また、境内の飛鳥井の井戸は、平安時代、清少納言が京の名水と詠んだ九名水のひとつ。

上御霊神社正面石碑


山名宗全邸宅跡
応仁の乱勃発の地・・・上京区烏丸通鞍馬口下る東入る 上御霊神社
1467年1月17日早朝、上御霊神社の森の合戦(畠山家の家督争い)から応仁の乱ははじまった。
ときは室町時代、将軍足利義政のとき、夫人日野富子は養子義視を排して、実子義尚を将軍にしようと画策!これを因に管領間の権力争いや相続争いなどが絡み合って、11年にも及ぶ大内乱となる。
現在の上京を中心に東西に陣を構えて戦い、京都は焦土と化した。勝元、宗全の死により、上洛していた諸侯も帰国し、戦乱は収まったが、将軍の権威は失墜し、諸将は各領国で覇権を争い、いわゆる戦国時代がはじまる。この乱を避けて地方に下った公家などにより地方文化の興隆をもたらした。
 東 軍・・・細川勝元・足利義視・斯波義敏・畠山政長・成身院光宣など
 西 軍・・・山名宗全・足利義尚・斯波義廉・畠山義就・朝倉孝景など
西 陣・・・山名宗全邸宅に西軍が布陣したことから一帯を呼ぶようになった。
京都上京の地名・西陣織の産地。
応仁の乱後四散していた織工が、桃山・江戸初期に西陣の地に集まって織物業を再興。錦類、金襴、緞子、繻子など各種の織物を製造し、当時の朝廷、幕府、諸大名の用いる高級品は大方西陣で作っていた。
山名宗全の邸宅は現在の上京区堀川上立売下る西入る付近にあったそうで、山名町と地名に残っている。
花の御所・・・上京区室町通今出川より東北の一帯
室町幕府を確固なものとした三代将軍足利義満が建てた邸宅で、華麗をもって聞こえたという。以後、室町幕府の権力の中枢となる。
足利義満といえば、南北朝統一を実現、また明との国交を回復し、勘合貿易を起こしたことでも有名。北山に金閣を建てて住み、北山殿よばれ、五山文学などを保護し、いわゆる北山文化を形成した・・・歴史で習いましたね。
ところで、応仁の乱勃発時の将軍は、八代・
足利義政で東山に銀閣を建てたことでよく知られていますが、幕府の財政難と各地の土一揆に苦しみ、夫人日野富子らに政務をゆだね、幕政は乱れた。家督争いを発端に応仁の乱となり、将軍としての威信はうしなわれた。京都東山に銀閣を建てて、戦乱をよそに数寄の生活を送り、東山殿と呼ばれ、東山文化を創生したことで知られています。

御土居と京の七口
1591年に豊臣秀吉が京の都の区画整理をした折、洛中と洛外を区別するため、都の周りに高く土を盛り上げ、ぐるりと囲む、24キロメートルに及ぶ土塁を築いた。
東・・・鴨川沿い   北・・・紫竹から鷹が峰にかけて(鷹が峰街道に遺構)   西・・・紙屋川(天神川)沿いに(北野天神の西境内、梅園沿いに遺構)   南・・・東海道本線沿い(現在の)におよび現在でも数箇所にその遺構をとどめ、史跡に指定されています。
洛外との往来は、
長坂口・鞍馬口・大原口・粟田口・伏見口・鳥羽口・丹波口のいわゆる京の七口を通っていたと言われているが、実際には十口以上あったようです。ほかに現在に残る地名として、東寺口清蔵口・荒神口などがあります。

ちなみに「
寺之内通」・「寺町通」の名称も、1591年の秀吉の区画整理で、応仁の乱後の荒廃した市中の寺院を,京の東限・鴨川の西側(東京極)に集め、「寺町通」と呼び、また都の北限で、安居院など比叡山里坊が点在していた安居院通(あぐいいん)にも集め、寺院集中地区を形成し、寺之内通と呼ばれるようになったとか?
なお、寺町通はもともと「
東京極」と呼ばれていたのだが、その通りのさらに東側付近に、多くのお寺への参拝客目当に茶店や見世物小屋が群立してゆき、一帯を京極になぞり、「新京極」と呼び、現在に至っているそうです。
今では京の繁華街の中心部となっていますが、当時は都の東はずれだったんですね!


堀川のつつじ


一条戻り橋


清明神社
堀川って水がないけど川なの? (02/4/10 写)
都の中央部を南流する堀川(堀河)。その暗渠部分(上京区堀川通今出川下る)より川の姿を現す路肩には、今年の早い季節の移りを知らせるかのように、早くもつつじが咲き始めました。
ちなみに堀川は、その昔、平安京造営以前は賀茂川の流路だったと云われています。今、川に水はありませんが、平成22年度整備完了を目標に、加茂街道・紫明から堀川・御池まで、美しいせせらぎを復活させる予定とのこと・・・・。

一条戻り橋
(一条堀川橋)
その昔、平安京の大内裏の北側を通っていた一条大路・・・現在の一条通も当時の道にほぼ相当するそうですが、天正年間(1573〜1592)の戦国時代終焉期、都の復興時に現道路幅に縮小され、土御門皇居(現在の京都御所)の造営により、烏丸通以東の御所内の通りが廃止された。造営当時には、東京極から衣笠まで、都の北方を東西によぎる大路として、賑わったらしい。
一条戻り橋は、都の中央部を南流する堀川(堀河)と一条通りとの交点にかかる橋で、数年前、幅広い新しい橋に架け変わりました。

なんといっても戻り橋
 といったら、昔から都人に良く知られていた橋のようです。
古来この橋にまつわる伝承は多く、もともとの橋の名の由来は、平安時代中期、学者の三善清行が病没し、急報を聞いて駆けつけた子・浄蔵が、この地で葬列に追いつき、すがる一念でよみがえり、話をしたとの言い伝えによるらしい。
この橋は、当時の大内裏の北東の鬼門に当たり、いろいろのおどろおどろしい話が伝えられています。平安中期の大江山の鬼退治で有名な源頼光の家臣・武人渡辺綱が、夜、戻り橋の東詰めで美女に出会い、乞われて馬に乗せ進みはじめると、突然鬼に変わり、襲いかかった。綱が鬼の腕を刀で切り落とすと、悲鳴を残し消え去ったとか・・・。
また、今ブームの陰陽師・安部清明が橋下に十二神を封じこめ、折々に呼び出して吉凶占いをしていたとか・・・・・・・。豊臣秀吉のため切腹させられた千利休の生首がさらされたのも戻り橋だったとか・・・・・。
昔より、婚礼には「
出戻り」を嫌い、この橋に近づくのを避け、逆に旅立ちやものやお金を貸す時は、「戻ってくる」よう、戻り橋を渡るそうです。戦時中の出征兵士はこぞってこの橋を渡り、無事の生還を祈ったそうです。
ちなみに渡る方向は?といえば堀川通から東堀川通へ、橋の西詰めから東へ向け渡るそうです。

清明神社
一条戻り橋の堀川通を隔てて50mほど西北の通り沿いには、前述の安部清明を祖神と祀る「清明神社」があります。昨今の陰陽師ブームで、境内は、家相や姓名判断に訪れる人や修学旅行生や若い観光客で大賑わい。2,3年前とは大変な変わりようです。
紫式部墓所 (02/3/31 写)
京都紫野にひっそりと眠る紫式部。
源氏物語のファンには、ひそかな人気観光スポットとして知られる墓所。
この地のソメイヨシノも今が盛り。
いつもはひっそりと忘れ去られたかのような墓所も、いま春爛漫!
                   (北区堀川通北大路下る西側道路沿い)

京の史跡を訪ね、古の都人の日常に思いを馳せらすのも一興かも知れません。
参考資料(都の数えうた・・・京都新聞社編  京都地名辞典・・・三省堂編  ほか)

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